1965年9月26日に公開の映画「8 1/2」を今すぐ視聴できる動画配信サービス(VOD)を徹底紹介。この記事では「8 1/2」のあらすじやキャスト・声優、スタッフ、主題歌の情報はもちろん、実際に見た人の感想やレビューもまとめています。
8 1/2が視聴できる動画配信サービス
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最終更新日
8 1/2のあらすじ
一流の映画監督であるグイドは、悪夢に悩まされる日々を送り、療養を理由に温泉に訪れた。妻や愛人との関係が冷めてしまった彼は、若い女優クラウディアに魅了されている。忙しい時間が過ぎる中、グイドは次第に現実と虚構の境界が曖昧になっていく。
8 1/2の詳細情報
「8 1/2」の制作会社や監督、キャスト、主題歌アーティストなどの作品に関する詳しい情報をまとめています。作品づくりに携わったスタッフや声優陣をチェックして、より深く物語の世界を楽しみましょう。
監督 | フェデリコ・フェリーニ |
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脚本家 | エンニオ・フライアーノ トゥリオ・ピネッリ フェデリコ・フェリーニ ブルネッロ・ロンディ |
出演者 |
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カテゴリー | 映画 |
ジャンル | ドラマ |
制作国 | イタリア |
公開日 | 1965年9月26日 |
上映時間 | 140分 |
8 1/2の楽曲
「8 1/2」の主題歌や挿入歌、サウンドトラックを紹介します。映像だけでなく音楽からも作品の世界を感じてみましょう。
- サウンドトラックOtto e Mezzo (Original Motion Picture Soundtrack)Nino Rota
感想・レビュー
2025年10月31日
療養のため温泉を訪れた映画監督。気づけばハーレム状態に陥り、現実と虚構の境界が次第に崩れていく。盛り上がりのピークはオープニングにあった。
フェリーニらしい複数の視点が交錯し、行きつ戻りつするパズルのような映画だった。もっと私小説的で内省的な作品を想像していたので、思いのほか素直に楽しめた。
創作に行き詰まった人の思考を映し出す映画
山泊テントで集中して観賞したが、内容がいまひとつ理解できなかった
現実と幻想の境界が曖昧になる表現と、ラストの美しい終わり方が印象的で興味深かった
字幕
芸術家にとって創作の日常はこうした姿勢から生まれるものだと感じます。今回は特に映画監督に焦点を当て、その展開を表現しました。人それぞれが頭の中に理想の展開やシーンを描きますが、それを実現できるかどうかは別問題。キャスト選びや演技が思い通りにいかないことは多いのです。特に名の知れた監督ほど次回作への期待が高まり、難しさも増します。すべてがすべて面白いとは限らない、という現実もあるのです。
観始めてすぐ、こんなに美しい映画を子供の頃に観ていなかったことを不思議に思う一方で、内容自体が重いだけに納得もできる気がした。Criterionのリストレーション品質が高いのも理由のひとつだろうが、白黒の映像にはやはり深い美しさがある。自分は主人公の行動とは違うところがあっても、根本は同じ人間であると感じる。終盤、彼が人生と周囲の人々への愛に目覚める場面を見て、私も何かを悟るような感覚を味わった。冒頭の夢のシーン(車から身体を捻じるように抜け出してから、両手を広げて空へ飛ぶ場面)は、生まれ変わりを象徴しているのだろう。最後に回収された伏線が、それを裏付けている。
ストーリーは理解が追いつかず眠気を誘う場面もあるが、演出には学びが多い。〈内容〉・女性への恐怖と期待への不安・自分の地位を利用した傲慢な態度(理想)・人を愛せない不信感愛を知らないから何もない、僕の物語はここで終わる。映画を完成させることは自分の人生を完結させることなのか。脚本家の言葉で開放される全てを受け入れる、愛する(自分自身も受け入れる?)。理想と現実の間で迷い、自己へ問いかける。フェリーニはこれを作りながら自分の人生と向き合えたのでは?自分の人生観を示すことは何になるのか。自己と他人への不安・恐怖を受け入れることで人生の見え方が変わる。〈演出〉・整列されている人々は異常・恐怖・悪夢へと変容する。・人が多く行き交うごちゃついた空間。・影の活用が恐怖・期待への不安・悪夢を映し出す。・ぶどうのモチーフは生命力・結びつきを象徴しているのか。・曲は印象的でハイテンポ、幻想や焦りを喚起する。・ラストは手を取り合い、すべてを受け入れる愉快な演奏へ。エヴァ旧劇場版と似た印象を感じさせる場面もある。
映画を学ぶ学校に通っていたにもかかわらず、長い間見逃していた映画史上屈指の一本を、ついに鑑賞する機会を得た。いつか観ようと思い続けて30年以上。観終わって感じたのは、作り手のやりたいことを力強く放つ清々しさだった。カメラワークが次々と対象をなぞり、絵作りがダイナミックに展開されるさまには強烈に魅了され、自己言及性や美術の完成度にも深く反応した。フェリーニ的な個性が色濃く出つつも、この時代ならではの作品としての気韻を感じる。もちろんこの時代の映画だけでなく、写真とも通じる感覚がある。特にオープニングの場面は忘れ難く、現実以上にリアリティを感じさせる夢のような導入だった。
先に観た「道」があまりにも良かったので、同じカタルシスを期待して勝手にがっかりしてしまった。映画は白黒の方がカラーより説得力があると感じることがある。
義父の退職祝いに箱根旅行をした際、乾杯の挨拶で引用された言葉が印象に残った。
「人生は祭りだ」
創作と家庭というテーマで考えると、自分にも当てはまる物語を感じた。(映画監督と比較するのはおこがましいが)
創作者たちは、妄想の世界に生きている。時には宇宙の争いに胸を躍らせたり、存在しない恋に夢を馳せたり、少年時代の旅を思い返したりする。固定観念に縛られず、可能性を感じながら泳ぎ続けるのが彼らの精神習慣だ。
一方、家庭は一つの形に集約されるもの。一人を愛し、子どもを育て、その人生を最優先していく。
うまくバランスを取れれば幸福だが、器用にやれるなら創作者にはなっていないかもしれない。
出会う人々、交わる思想、触れる芸術、そして自らの過去が、すべて創作の種となる。また、それらすべてが障害になることもある。悦びを感じながらも汗をかきつつ、歩いても走っても、あっという間に過ぎ去る。人生はまさに祭りなのだ。
難解でした。正直、まったく理解できませんでした。
スランプに陥った芸術家が女性に幻想を求めるということか?当時のフェリーニ作品は撮影時に声を録音せず、後から当てているためリップシンクが不自然で、その結果、現実と幻想の境界がさらに曖昧になっているようです。
オープニングから映像が鮮烈で、終始素晴らしい撮影技術が光ります。
ラストの「我々は無用な言葉や音や映像に窒息させられている」というセリフは、60年後の今を予言しているようで興味深いです。
クラウディア・カルディナーレはとても美しかったです。ご冥福をお祈りいたします。