2015年7月25日に公開の映画「野火」を今すぐ視聴できる動画配信サービス(VOD)を徹底紹介。この記事では「野火」のあらすじやキャスト・声優、スタッフ、主題歌の情報はもちろん、実際に見た人の感想やレビューもまとめています。
野火が視聴できる動画配信サービス
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最終更新日
野火のあらすじ
第二次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。敗戦の気配が濃くなる中、結核を患った田村一等兵(塚本晋也)は野戦病院行きを命じられ、部隊を追い出される。しかし負傷兵が多く、食料も底をつく状況で、彼が携えるわずかな食糧だけを頼りに追放され、再び戻った部隊からも受け入れを拒否される。こうして原野を彷徨う日々が始まる。空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱に立ち向かいながら、田村が見たものとは……
野火の詳細情報
「野火」の制作会社や監督、キャスト、主題歌アーティストなどの作品に関する詳しい情報をまとめています。作品づくりに携わったスタッフや声優陣をチェックして、より深く物語の世界を楽しみましょう。
野火の公式PVや予告編動画
「野火」の公式PV・予告編動画を紹介します。映像から作品の雰囲気やキャストの演技、音楽の世界観を一足先に体感できます。
野火を無料で見る方法は?
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感想・レビュー
戦場の極限体験とPTSDをテーマにした設定は好みだが、作品として映像化がうまくできているか見極めづらい。何が起きるかわからない緊張感は伝わるものの、物語の進展が乏しく、主演兼監督という世界観が強く前面に出ている印象だ。松永のセリフが棒読みなのは故意なのか、演出意図が気になる。
戦争の残酷さは言葉に尽くせない。その中心にいるのが、肺病を患った兵士だ。彼は『肺病を治すか、自決するか、どちらかだ』と言われる。この言葉を発する兵士の優しさには驚かされる。通常なら、『肺病を治してから来い』と言われるはずだ。状態がどうであれ、容赦なく使われるか、使えないとして排除されるのが現実だ。しかし、彼は前線と病院の間で翻弄される。優しさへの感謝もあるが、果たして何をすべきか悩むばかりだ。物語が進むにつれて、この兵士は生き延びるために人を殺し、さらには人肉を食べるようになる。戦争は人を変えてしまう。だからこそ、私は戦争に反対だ。『戦争しよう』と言う人には、ぜひこの現実を理解してほしい。元々優しかったこの兵士にトラウマを与えたのは、間違いなく戦争だ。『戦争しよう』なんて愚かなことは口にしてはいけない!
リリーフランキーに声が似ている役者だと思って見ていたら、まさか本人だった。いろいろとすごかった。
今までで一番恐怖を感じた体験があった。最後の一席ということで、最前列の右端という、座るには少々不安な場所だった。目の前にはスピーカーがあり、映像よりも音響や振動が直に感じられ、その体験は非常にリアルだった。南国フィリピンの鮮やかな自然と、日本軍の暴力や死の惨劇が対比され、夜の行軍中に襲った銃撃の衝撃が心に残った。サーチライトが死を照らし、臓器や四肢が飛び散り、脳がこぼれ落ちる様子がダイレクトに描かれていた。直接的と言っても、実際はこういうことなのだろう。ウクライナやガザ、南スーダン、コンゴ、ミャンマー、シリアなど、どこでも同様の現実が存在する。どんな理由があっても戦争は避けるべきだし、防衛を目的としても戦闘は絶対に回避しなければならない。軽い気持ちで見るものではなかった。上映中には一度死にそうな気持ちになり、映画を見ただけでトラウマになると思った。その後、塚本監督とリリー・フランキーさん、森さんによるトークイベントがあり、映画の重みとは対照的に和やかな雰囲気で時折笑いも起きた。しかし、上映の意義を語る言葉は真剣で、非常に意義深いものだった。この映画が上映されている間は一瞬の平和であるかも知れず、問題提起の必要性を感じさせた。「勇ましい」とされる発言が増える中、非暴力を訴えるには暴力をしっかり描かなければならないのだろう。来年の秋には「パンチの強い」作品が監督の新作として公開されるらしい。
小説で読んだ時も衝撃的で、勇気が出ずここまで観ずに来ましたが、ついに鑑賞しました。小説も映画も同じように、強い衝撃を受ける一方でどこか淡々とした印象が残ります。うまく言えませんが、「猿」が指すものを悟った瞬間、知っていたはずなのに言葉を失いました。戦争には、映画以上の、想像を超える残酷さがあったのだろうと思います。野火はフィクションですが、もしかしたら本当にあったことかもしれない、あるいはもっと凄惨で辛い出来事があったのかもしれません。怖さでいっぱいで、正直戦争についてあれこれきちんと考える余裕はありませんでした。痛そうだ、怖いといった感情だけが頭を占め、こんな形で「必死に生きる」ことが二度と繰り返されませんようにと強く願います。
初めは市川崑のリメイクを意図していなかったらしい。冒頭は何これと思ったが、次第に引き込まれていく。戦闘シーンはかなりグロいが、悲惨さが伝わってくる良い場面だと感じた。森優作の演技が光る一方、カニバリズムをめぐる賛否が分かれる作品。#戦争 #軍隊 #ドラマ
人としての存在を問う作品。
二度目の鑑賞。
映画は突然始まる。
肺の病を抱え、軍医には引き返され、防空壕は掘れず、理不尽なたらい回しに遭う。ただ、死にかけて防空壕を掘るか、餓死するか、手榴弾で自ら命を絶つか、という選択肢しかない。軍医は、生きるのか死んでいるのかも分からない人に手当てをしている。うめき声、血、蛆虫、狂気が渦巻いている。突然音がして、機銃掃射で隣の人の頭が吹き飛ぶ。
フィリピンの村で、「殺さない」とタガログ語で言うが、現地の人々には信じてもらえない。「殺さない」と言いながらも、教会で女性を銃剣で刺し殺してしまう。その瞬間の慟哭が田村の心に深く刻まれる。男女で海に泳いでいた無抵抗な村人たちの幸せと命を奪った田村。飢えにあえぐ兵士たちは、実はトロピカルな楽園にいる。そこが戦争でなければ、温暖で、虫の声が響き、鳥が囀る美しい場所なのだ。実際、田村たちが目指しているセブは現在、著名な観光地となっている。その自然の豊かさが、この惨状と対比を成している。
偶然出会った伍長とのやりとりも興味深い。同じ軍隊の兵士とは思えない緊張感が張り詰めている。士気はもうない。生き残るために何とかするしかないが、統制が取れていない軍隊では、いつ誰が裏切るかも分からない。互いの利害だけを基に、人間関係を築く極限状態。
夜中の匍匐前進は圧巻。臓物が垂れ、足が飛び、飛び散った脳を踏みしめながら逃げ惑う。白旗を掲げる兵士は現地の女性に射殺され、降伏の道は閉ざされる。
谷に横たわる死体、腐敗し顔の形が崩れた者、木にくっついた肉片、ただ朦朧と歩く真っ黒な兵士たち。これが塚本監督が描きたかった映像だろう。
亡くなった伍長を食べるのかどうか、幻覚に誘われ、夢の中で永松に助けられるが、永松には銃剣を向けられていた。永松からは「猿」の肉を渡される。生きていた永松と足を怪我した安田は、猿の肉を通じて思いを繋いでいた。猿とはフィリピンの現地民を指していた。オセアニアで飢えに苦しむ兵士たちは言葉にはしないが、「白豚」や「黒豚」の肉を食べていたとされる。永松は戦地で親代わりの安田を殺し、その肉を食べる。極限状態にあっても田村は永松を抑え、牽制する。暗転後、田村は狂人となり、現地民に襲われ、米軍の野戦病院で捕虜となる。その手記は晩年、自宅で書かれ、夜中にはPTSDに苦しみながら頭を打ちつけ、祈るかのように手を合わせる。
現代では人肉食は禁忌とされるが、この状況下でそれを責められる人は居ないだろう。兵站の破綻が如何に無意味な死と絶望を生むかを明瞭に描いた傑作であり、極限状況における人間の尊厳を保つか生き延びるかを選択する普遍的な物語でもある。
原作を読み終えた後に視聴しましたが、原作の方が遥かに面白いと感じました。映像が安っぽく、戦場とは思えないほど緑が生い茂っています。焼けた草木や倒木が見当たらず、敗残兵が不自然に映り込んでいる印象を受けます。まるで合成のようですし、登場人物の歯が真っ白なのも気になります。画面を揺らす演出も、個人的には不快に感じました。
塚本晋也監督の『鉄男』を20年ほど前に観て強い衝撃を受け、その直後には『鉄男II』も観たものの期待外れに感じ「やっぱり一発屋か」という印象を抱いた。あの感想を今になって読み返すと、当時の自分が抱いていた感覚が鮮明に蘇る。以降、塚本の作風を改めて見渡すと、『鉄男』『鉄男II』に加えて最近観た『KOTOKO』の印象が強いが、その中で『鉄男II』の記憶は他の作品と同様に薄れてしまい、氏の作品といえば「鉄男」や「KOTOKO」の孤独な都市生活者の痛みを直裁に描くイメージが強く根づいていた。そんな私の中に、塚本が個人の孤独と痛みを扱うのではなく、古典的な戦争文学『野火』を映画化するという選択があることは、少し意外だった。
多くの文学者村上春樹や大江健三郎、ドストエフスキーのようなはデビュー期に自我と対立する他者や社会との狭く個人的な関係について探究してきたが、どこかの時点で自己を含む世界や文化とより大きな対象との関わりへと広がることがある。自らが救われた経験が転機になることもあるのだろう。村上春樹が河合隼雄との対談で語った「デタッチメントからコミットメントへの変化」というテーマは、塚本晋也にも同様の変化を促したのではないかと私は思う。私自身が『鉄男』を観た頃に抱いていた問題意識と、いま私が持つそれとの間には、何かしらのリンクがあるのかもしれない。
『野火』を映画化することで、塚本は「個人の痛み」に加えて戦争という巨大なテーマへと歩みを進めたのだろうかそんな興味が私にはあった。原作は大岡昇平の『野火』で、新潮文庫の短編としては比較的短く、私が長い間文学として読み継いできた作品でもある。記憶に残る場面はいくつもあるが、最もよく語られるのは、戦争のただ中で敵と戦うのではなく、内部での対立や食料をめぐる奪い合いに翻弄される人間の姿と、死を目前にした仲間に対する倫理的ジレンマだ。特に有名な「同胞の肉を切ろうとする右手を左手が止める」場面は、文学としての核であり映画の映像化における大きな挑戦だった。ところが、映画版にはこのシーンがなかった。もし描かれていれば、劇的で映像映えするドラマとなっていただろうという想像を禁じ得ない。
塚本はなぜこの場面を省いたのかそんな問いについて、私は多くの感想を読んだが、この点について詳しく論じられたものは少なかった。語られなかった事柄には、しばしば大きな意味が潜んでいる。右手と左手の対立というモチーフは、人間の理性と獣性、倫理と本能の衝突を語る文脈で頻繁に論じられるが、塚本はこの対立をそもそも前提として受け止めておらず、生き延びることと人間性の保持の間に相関性は存在しないそんな結論めいた確信が、私には読み取れたように感じられる。
この映画で私が強く印象づけられたのは、反戦の文脈というよりも、塚本らしい精神的・肉体的な痛みと、戦場での環境適応力の高さだった。ジャングルという過酷な場で、何も持たずに生き延びるために人は自らの価値観を捨て、食べられそうなものは何でも口にし、利用できるものは何でも利用する。飢え・病・毒・仲間の死といった極限の状況で生還した後も、日常へ戻ってからの記憶が彼を苦しめる。このように、人間は「生」と「痛み」を不可分に抱えながら生きる存在だこれが塚本が描く人間像の核心だと私は解釈している。
比べて、最近読んだ水木しげるの『ラバウル戦記』では作者自身の怒りが作品の間に強く滲み出る。一方で本作にはそうした怒りは視界にほとんど現れず、主人公の死にたくないという欲望、飢えの苦しみ、倫理と欲求の揺らぎがそのまま伝わってくる。こうした描写は、単なる反戦メッセージよりも、人間存在の痛みに根差した生き延びる力を鮮明に映し出す塚本流の方法論といえるだろう。
また、この作品の自然描写には、熱帯の美と醜、そして生と死のコントラストが強く立ち現れていた。沖縄のジャングルを想起させる花や風景の描写だけでなく、オオシマゼミの鳴き声の存在感が、熱帯の音と光のコントラストをさらに際立たせている。実際、オオシマゼミは奄美・沖縄の日本固有種とされるが、フィリピンのセブ島周辺にも似た声の蝉が存在するとの話を友人から聞くと、地理的な記憶と自然の響きが絡み合い、旅するような想像を掻き立てられる。不思議な偶然はあるものの、それ以上にこの映画の自然描写は、観る者に熱帯の生と死を強く意識させる力を持っていた。
この作品を通じて問われるのは、戦争をどう伝えるべきか、という倫理的問題だけではなく、痛みを通して人はどう他者と世界とコミットしていくのかという根源的な問いだ。塚本晋也は、痛みの描写を通じて人間と世界の関わりを探ろうとしているのかもしれない。戦争の暴力性を前提とした単純な反戦メッセージには頼らず、個々の痛みと生の欲求を核として、人間存在の本質に迫る視点を選んだと感じられる。
昔、偶然に見た市川崑監督のバージョンが印象に残りすぎて、どうしても比較してしまった。