2023年5月19日に公開の映画「ソフト/クワイエット」を今すぐ視聴できる動画配信サービス(VOD)を徹底紹介。この記事では「ソフト/クワイエット」のあらすじやキャスト・声優、スタッフ、主題歌の情報はもちろん、実際に見た人の感想やレビューもまとめています。
ソフト/クワイエットが視聴できる動画配信サービス
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ソフト/クワイエットのあらすじ
郊外の幼稚園で働く教師エミリーは、「アーリア人団結をめざす娘たち」という白人至上主義のグループを立ち上げる。教会の談話室で開かれた初回の会合には、エミリーを含む6人の女性が集まり、多文化主義や多様性に対する反感を抱く彼女たちは、不満や過激な思想を共有し、盛り上がりを見せる。後に、エミリーの自宅での二次会を計画するも、途中で寄った食料品店でアジア系の姉妹との激しい口論に発展。エミリーたちは、怒りをぶつける形で姉妹の家を荒らす計画を立てる。しかし、それは取り返しのつかない理不尽で恐ろしい犯罪の幕開けだった……。
ソフト/クワイエットの詳細情報
「ソフト/クワイエット」の制作会社や監督、キャスト、主題歌アーティストなどの作品に関する詳しい情報をまとめています。作品づくりに携わったスタッフや声優陣をチェックして、より深く物語の世界を楽しみましょう。
監督 | ベス・デ・アラウージョ |
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脚本家 | ベス・デ・アラウージョ |
出演者 |
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カテゴリー | 映画 |
ジャンル | スリラー ホラー ミステリー |
制作国 | アメリカ |
公開日 | 2023年5月19日 |
上映時間 | 92分 |
ソフト/クワイエットの公式PVや予告編動画
「ソフト/クワイエット」の公式PV・予告編動画を紹介します。映像から作品の雰囲気やキャストの演技、音楽の世界観を一足先に体感できます。
ソフト/クワイエットの楽曲
「ソフト/クワイエット」の主題歌や挿入歌、サウンドトラックを紹介します。映像だけでなく音楽からも作品の世界を感じてみましょう。
- サウンドトラックSoft & Quiet (Original Motion Picture Soundtrack)Miles Ross
ソフト/クワイエットを無料で見る方法は?
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感想・レビュー
集団心理に流され、取り返しのつかない事態を招くことは誰にでも起こり得る現象だと感じました。また、男女の思考や心理の違いが巧みに表現されていた点も良かったです。終始緊張感を持たせる不穏なカメラワークとワンショットでの撮影が、物語を一層引き立てていました。
ワンショットでの撮影なので、一部見づらいシーンはあったが、その場の嫌な空気感がしっかり伝わってきて良かった。清掃員に対する子供の文句が、主人公への不快感を増していたが、その後の展開も悪い意味で一貫していて興味深かった。序盤の意見に関しては、昨今の日本の状況を考えると笑えない部分もあったが、結局彼女たちは自身の能力や環境に対する不満を、わかりやすく捌け口に投げつけていただけだと理解できた。単なる愚痴の場にするだけで良かったのに、複数人になると気が大きくなる典型的なパターンを描いていて、少し笑ってしまった。その場のメンバーの相性が悪い意味でピッタリだったのが印象的で、ずっとお腹の中がモヤモヤするような映画で、ファニーゲームを観た時の感覚に似ていた。それに関しては、キャスト全員の演技がとても良かったと感じる作品だった。
メインテーマは人種差別ではない。まるで女性の悪い部分を凝縮したような不快な体験を強いられた感じだ。同調圧力や他者責任、そして感情の激しい変動や誤解が目立つ。これは女性への憎悪ではない。胸が悪くなるような内容なのは確かだ。ただ、ノーカットの一本撮り風の手法が作品に引き込まれる要素となっている。途中で真っ暗になるシーンもあり、1時間半という長さの中で昼から夜に変わることからも、実際には一本撮りではないだろうが。この作品は非現実的なホラーではなく、登場人物たちが考えうる最悪の選択を行うだけで、「これ以上でも以下でもない」という淡々とした感覚が新鮮だった。
不妊に悩む幼稚園教師のエミリーは、伝統的な家族観と女性を重んじる保守的な世界に強く惹かれつつも、白人以外の人種をめぐる差別的優遇に不満を抱く。そんな彼女は、同じ志を持つ右派の女性たちを集めて「アーリア人団結をめざす娘たち」というグループを結成する。創立初回の会合は教会の一室で開かれたが、談話の中で露呈した人種差別思想を耳にした神父に追い出されてしまう。彼女たちは場所を移すが、そこでエミリーと因縁のあるアジア人女性アンと出くわし、グループの行動はさらにエスカレートしていく。
本作は、唾棄すべき犯罪を露悪的に描く多数の作品と同様、観客を不快にさせる場面が多い。しかし90分の長回しワンカットという演出と、何よりも女という主題が前面に出てくる点が特筆的だ。
まずワンカットの魅力から。
私は長回しの演出が大好きで、ワンカット風の作品も好んで観る。映像の中で1分が現実の1分と一致するとは限らないが、本作は90分の時間軸の中で昼から夜へと進行していく。徒歩や車での移動さえ、映画の中では何10分も経過しているように感じられる。この時間の圧縮とデフォルメは非常に巧妙だ。
近年のアメリカ社会を取り巻く移民問題・人種差別の現状は、0か100かといった極端な対立で語られがちだが、本作はその時代の政治的正しさが正義観を揺さぶるさまを描く。だが私には、差別思想を前景化する諸要素の背後に、女性の愚かさを核に据えたテーマが潜んでいるように映った。もちろん、すべての女性が愚かだと言うつもりはない。
本作が描く『女の愚かさ』は、次の二点に集約できる。
1) 集団であることの力と結束、2) 自分が正しいと信じる確信。彼女たちは利己心だけでなく、他者の権利を脅かす怒りを燃料に、集団の意思と自らの欲望が結びつくことで自分たちこそ正義の側にいると信じている。それは、女性ならではの哀感といえる面を帯びていると私は感じた。
この横並びの女性たちが、追い詰められると男性的なリーダーシップを持つ者に従うという皮肉も浮かび上がる。これは、女性の善性を最大限に描く『ウーマン・トーキング 私たちの選択』とは対極にある、別の光を当てた描写だと捉えられる。
監督は女性。男性監督には持ち得ない視点の鋭さが、同じ女性たちをここまで露わに描く力につながっているのだろう。
最後に、エミリーの夫の存在について。彼は犯罪へと走る妻たちを止めようとするが、やがて自分の立場を問われる難役を担う。彼が妻たちを止められないと感じたことで、プライドと現実の間で揺れ動く姿が描かれる。彼の役柄は、同性・異性を問わず、鋭い切れ味を宿すベス・デ・アラウージョ監督の筆致が光る。
だから洋画ではブロンドのキャラクターが、愚かであっさり死ぬ役どころとして描かれがちだ。
洋画ではブロンドのキャラクターが、知性に欠け早く命を落とす役として描かれることが多い。
洋画に登場するブロンドのキャラクターは、しばしば愚かさと早い死を結びつけて描かれる。
あまりにも幼稚な勢いの集団には、ぞっとさせられます。理解に苦しむほどの軽薄さ。これからの日本でこんな事態が起こり得るのかと、見守りつつ考えさせられました。外国人が増えることを安易に受け入れる人には、ぜひこの現状を見てほしい。
胸くそ悪い
ポスターからも示唆されているけれど、これは人種の問題じゃなく、各々の内面の問題だと早く気づいてほしい。
歪んだ価値観と濁った知性が、正義を振りかざして狂気へと変わり、人を殺してしまう。
排斥主義を煽る者には、もっと深く疑問を持ちたい。
彼女たちが会合で語っていた白人至上主義と、現在の島国日本における日本人至上主義は非常によく似ているように感じたが、果たして同じものなのだろうか?行動は決して許されるものではないが、彼女たちの言葉には共感する部分が多く、真剣に考えさせられる思いを抱きながら最後まで見守った。
酔っ払った勢いで差別的な行動がエスカレートし、アジア人姉妹の家に押し入って命を奪うという事態が起きている。全く許せない行為だ。
今作はここ最近で観た映画の中でも特に恐ろしさを強く感じた一本です。幼稚園の先生を軸に、6人の女性が白人至上主義のグループ「アーリア人団結を目指す娘たち」を結成します。性格も職業も異なる彼女たちが、お茶会で打ち解け二次会へ向かう途中、アジア系の女性二人と衝突します。人種差別意識が作用して、彼女たちを少し懲らしめてやろうとする展開に進むのですが、当の彼女たち自身も予想外の事態へと突き進んでいきます。まずこの映画の特徴は、冒頭から終盤まで全編ワンショットで撮影されている点。制約のない場面展開が観客を集会の場面から後半の惨劇までそれぞれの場に立ち会わせ、胸の内が苦しくなる展開でも決して目を離せなくします。さらに、主人公たちの言動は過激でありながら、彼女たちは普通の女性として描かれている点がゾッとさせます。多様化社会が過剰に進むことへの反動として息苦しさを感じる人が増えているのかもしれない、という印象を受けます。リトルマーメイドの論争といった現象にも通じるように、マイノリティを単に優遇すればよいという話ではなく、それ自体が新たなヘイトを生み出す危険性も孕んでいるように見えます。作中の6人は、多様化が進んだ現代社会の表れとして描かれており、色々と考えさせられる作品でした。