2011年4月29日に公開の映画「八日目の蝉」を今すぐ視聴できる動画配信サービス(VOD)を徹底紹介。この記事では「八日目の蝉」のあらすじやキャスト・声優、スタッフ、主題歌の情報はもちろん、実際に見た人の感想やレビューもまとめています。
八日目の蝉が視聴できる動画配信サービス
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八日目の蝉のあらすじ
今日まで自分を母親だと思っていた女性が、実は自分を誘拐した犯人だった――21年前に起きた誘拐事件を軸に、不実な恋人との間に生まれた子を奪い去った女・野々宮希和子と、その誘拐犯に愛情を注いで4年間育てられた秋山恵理菜の運命が交差する。実の両親の元へ戻っても、普通の生活を取り戻せず心を閉ざして成長した恵理菜は、ある日自分が妊娠していることに気づく。相手は希和子と同じ、家庭を持つ男だった。封印していた過去と向き合い、希和子と暮らした小豆島へと向かった恵理菜が見つけた衝撃の真実。そして、恵理菜が下す決断とは――
八日目の蝉の詳細情報
「八日目の蝉」の制作会社や監督、キャスト、主題歌アーティストなどの作品に関する詳しい情報をまとめています。作品づくりに携わったスタッフや声優陣をチェックして、より深く物語の世界を楽しみましょう。
八日目の蝉の公式PVや予告編動画
「八日目の蝉」の公式PV・予告編動画を紹介します。映像から作品の雰囲気やキャストの演技、音楽の世界観を一足先に体感できます。
八日目の蝉の楽曲
「八日目の蝉」の主題歌や挿入歌、サウンドトラックを紹介します。映像だけでなく音楽からも作品の世界を感じてみましょう。
- 挿入歌DaughtersJohn Mayer
八日目の蝉を無料で見る方法は?
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八日目の蝉のよくある質問
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Q映画『八日目の蝉』のあらすじは?
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A
『八日目の蝉』は、誘拐された子供とその誘拐犯である女性の逃避行を描いた物語です。実の母親から赤ん坊を連れ去られた主人公は、別れの苦しみを通じて自身の居場所を探します。愛と赦しをテーマにした感動作です。
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Q『八日目の蝉』の主要キャラクターについて教えてください。
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A
『八日目の蝉』には、誘拐犯である野々宮希和子と誘拐された子供の薫が登場します。希和子は自らの欲望と葛藤しながらも、薫に母親としての愛情を注ぎます。一方、薫は成長する中で自分の過去を知り、複雑な感情を抱えます。
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Q映画『八日目の蝉』のテーマは何ですか?
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A
『八日目の蝉』のテーマは、愛と赦し、そして自身の存在意義を探求することです。誘拐という過酷な状況の中で、登場人物たちはそれぞれの立場で葛藤し、苦しみながらも新たな人生を見つけていく姿が描かれています。
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Q『八日目の蝉』の原作との違いはありますか?
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A
映画『八日目の蝉』は、角田光代の小説を原作としています。映画化にあたり、登場人物の心理描写や事件の展開がより視覚的に強調され、映像ならではの感動が加えられています。ただし、原作の持つ繊細な心理描写も大切にされている点が特徴です。
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Q映画『八日目の蝉』の制作スタッフについて知りたいです。
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A
映画『八日目の蝉』の監督は成島出が務めました。脚本は奥寺佐渡子が担当し、音楽は安川午朗が手がけました。これらのスタッフが一体となって、原作の深いテーマを忠実に映像化しています。



八日目の蝉の感想・評価
八日目の蝉 母性と罪の境界
「母とは何か」この問いから物語が始まる。
原作の冒頭に漂うニュアンス、「私の母は、私を誘拐した人でした」
この一文は、母性という絶対的な概念を揺さぶり、読者を倫理と愛の狭間へと引き込む。角田光代の小説は、希和子と恵理菜の二つの視点を交差させ、フェリーですれ違うことで幕を閉じる。一方、映画は希和子の出所後を描かず、恵理菜の妊娠と再生に焦点を当てる。写真館の追加シーンは、視聴覚表現の力で「母性の記憶」を可視化し、観客に深い余韻を残す。
希和子の願いはただ一つ「ずっと一緒にいたい」。
その切実さは、法を越えた母性の衝動であり、同時に罪の始まりでもある。薫と名付けられた幼い恵理菜は、その怯えを敏感に感じ取りながら、希和子の愛に包まれる。しかし、その愛は奪われ、秋山家の狂気じみた躾が恵理菜の感情を封じ込める。人格改造という名の洗脳。空虚な心を抱えた彼女が、岸田との出会いで「性」さえも学ぶ場面は、失われた人間性の象徴である。
やがて千草が現れる。彼女の沈黙の奥には、エンジェルホームで過ごした日々と、薫を失った痛みが潜む。「八日目の蝉」という言葉を千草は二度使う。最初は、駆け込み寺に救いを求める人々の幻想を蝉に重ねて七年間の地中生活、地上での一週間、そしてありえない八日目。二度目は、恵理菜の過去に向けて本来ないはずの時間、誘拐によって与えられた母との日々。それは余剰な時間であり、彼女のアイデンティティを複雑にした。
写真館で見つけた一枚の写真。希和子の笑顔に宿る最後の幸せ。その瞬間、恵理菜は走り出し、「もうこの子が好きだ」と叫ぶ。母性の目覚め。それは、空虚を埋めるだけでなく、罪と愛の連鎖を断ち切る決意だ。「もし私が母になったら、両親も祝ってくれるかな」この問いには、壊れた家族への赦しと再生の願いが込められている。千草が「私も手伝う」と応える場面は、人間性の回復が他者との連鎖によって生まれることを示している。
八日目の蝉とは何か。それは、ありえない時間を生きる者の象徴であり、母性という名の希望である。希和子の選択は、法を超えた愛の証だったのか。それとも、母性の美化に過ぎないのか。映画はその問いを観客に委ねる。しかし、確かなことが一つある人間性こそが、人間を救う。
2011年の作品。
映画が素晴らしかったので原作も読んだ。しかし、この両者の内容は少し異なっていた。原作は野々宮希和子の視点と秋山恵理菜の視点で語られ、小豆島へ向かうフェリーでお互いがお互いのことを理解せずにすれ違うシーンで終わるが、映画では逮捕された後の希和子は登場せず、秋山恵理菜の視点になる。また、原作になかった写真館と最後のシーンが付け加えられたことで、物語そのものの受け取り方が大きく異なっていた。この改定は「君の膵臓をたべたい」と同様に、文章と視聴覚の違いを最大限に生かしているように感じた。原作の着地点は、出所した希和子が小豆島に再び渡って昔の思い出を辿る旅を終え、その後に恵理菜と千草が小豆島行のフェリーに乗りこむことで、それぞれの現在地を明らかにした。映画の着地点は、急遽な生き方しかできないまま妊娠した恵理菜が、親の愛情という欠けたものを取り戻す物語だった。
さて、映画でのこの物語は、人間の在り方を問いかけていた。誘拐という許されない犯罪行為の背後には、法律では救われない「立場の弱い女性」の率直な気持ちを描きつつ、そこに視聴者の共感を呼び込んだ。特に希和子の唯一の願いだった「ずっと一緒にいること」という親子間での最も根幹的な幸せと、いつか来るかもしれない引き裂かれる恐怖に怯えるようにする生き方に、その怯えという微細な周波数を、薫と名付けられた幼い恵理菜が敏感に感じ取っている点が痛々しく、不条理な世界を巧みに描いていた。この部分は、希和子の人生において最も深く刻まれた記憶であり、唯一の幸せだったのかもしれない。同時にその期間は、薫にとって母という存在が示す無償の愛が深く浸透した期間でもあった。
ところが、その両者が引き裂かれた後の両親による恵理菜への躾は、事件そのものを封印する同時に、不倫と誘拐によって世間にさらし者にされたことで、離婚もできず、両親が誰なのか理解できない恵理菜に対する狂気じみた振る舞いによって、恵理菜は親の言うことに従うしかなくなる生き地獄の世界となった。物語冒頭における原作のニュアンスは、「優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした」という形で始まり、この1文は小説というジャンルの大切な「掴み」であり、この物語が「母性」を視点にしていることを示している。小説ではややわかりにくかったことを、映画では非常に明確に改定されていたのだろう。薫として育てられた恵理菜の基本的な土台には、希和子からの愛情が降り注いでいた。しかしそれは秋山家にとっては重大な問題であり、その全てが時間をかけて削り取られてしまったのが現在の恵理菜ということになる。恵理菜は常に母が発狂しないように母に合わせた生活をするようになる。それはまさに人格改造という洗脳である。秋山家はそれによって体裁の問題は減ったが、同時に恵理菜は人間としての感情を閉じ込めてしまう。
そんな中で起きたのが岸田との出会いだった。恵理菜は、両親が事件に関するものすべてを奪ったことで、何も知らない子として育った。おそらく友達を作ることさえ許されなかったのだろう。友達の親が、事件を嗅ぎつけることが怖かったと思われる。度重なる引っ越しと、父の転職が語られている。やがて大学進学をきっかけに恵理菜は一人暮らしを始めるが、両親が引っ越し生活に音を上げたからだろう。恵理菜が出ていった後の秋山家は、魂の抜け殻のような母と父の姿が虚しく映る。「いろんなことを教えてくれた」のが岸田であり、「性」に関することさえも彼から教わった。
やがて恵理菜の前にフリーライター安藤千草が現れる。彼女の正体は、駆け込み寺のような団体エンジェルホームで一緒だったことが明かされるが、千草の語られない余白には、彼女の人生から突然いなくなってしまった薫の人生に深く寄り添いたいと思うほどの「傷」があったことを窺わせる。千草が語る男性恐怖症。そして駆け込み寺が思わせる、父による暴力や虐待。恵理菜の父の不倫による誘拐事件と、4年間の逃亡生活、そして裁判記録。千草はこの裁判記録を読むことで、現在の恵理菜のことが心配でいられなかったのだろう。映画でのエンジェルホーム時代の二人には年齢差はあまり感じられないが、実際の設定では10歳ほどの差がある。フリーライターになった千草はエンジェルホームを取材しており、その後恵理菜の誘拐事件も調査した。それは、やはり千草にとってエンジェルホームで過ごした時の薫が忘れられなかったからだろう。
人の心の痛みを誰よりもわかる千草が、希和子の裁判記録を携えてきたことで、この物語が紡ぎだされていく。空虚な心の恵理菜は、おそらく自分だけではその空虚さを処理することができなかった。千草から受け取った裁判記録が、心の奥底に閉じ込めてしまった薫の記憶を呼び戻し始めた。そして妊娠発覚とその事実を両親に話し、「堕せ」という母の発狂を確認して、母が裁判で希和子に述べた言葉を返した。この瞬間、恵理菜は自分自身を取り戻す決心をしたのだろう。妊娠がわかった時点でさえ、恵理菜は空虚だった。裁判記録から父の不倫と、希和子に対してした所業を知り、岸田の体裁のいい言葉は当時の父の言葉と同じであったことから、岸田との関係を断ち切った。そして恵理菜と千草は小豆島へ向かう。恵理菜の記憶が心の底から息を吹き返し始める。
そこにあったのは、母希和子の深い愛情だった。ただ一緒にいたい。その一心で見ていた当時の風景や祭りの光景。希和子がどんな思いで私(恵理菜)と一緒にいてくれていたのかが、頭の中に蘇る。そして、たどり着いた写真館。そこに残されていた唯一の当時の写真 本当の親子の姿。その写真に写る希和子の笑顔からは、最後の幸せの一瞬が滲み出ていた。この瞬間、恵理菜は自分が何者なのかを思い出すように走り出す。追いかけてきた千草に、「もうこの子が好きだ」と叫ぶ。希和子の本心が映し出された写真は、幸せと同時に、そのタイムリミットに打つ手がなくなった瞳が映っている。それを感じ取る自分自身。どんな状況になっても限界まで愛情を注ぎ続けた希和子。そんな母に私(恵理菜)もなるという決意。お腹の中の子は、私自身、ありのままの私。母性としての愛情。八日目の蝉という言葉を千草は遣った。最初はエンジェルホームで取材したときに感じたことを八日目の蝉に例えた。それは、7年間も土の中で暮らして、地上に出てからはたった1週間で死ぬ蝉に、もう1日あったならということだ。駆け込み寺には救いを求めてくる人々がいる。それは、人生では起きないことを人々が求めるものだろうという千草の問いだった。二度目は、恵理菜が希和子と過ごした時間に例えた。本来ないはずの時間、誘拐事件によって与えられた「母と過ごした日々」は、恵理菜にとってありえない時間=八日目。それが彼女のアイデンティティを複雑にしていることを示している。あまり深く考えず、モチーフ程度で留めておくべきだろう。
この作品は地上波でも何度か流れたが、心に深く突き刺さる作品で、何度も見てしまう。希和子のしたことと背負う覚悟は、母性という深い愛情の方が、負うリスクよりも強いことを示している。そのリスクを背負ってでも母性に従った希和子の選択は、人間として正しい在り方のように思える。空虚な人間となり果てた秋山家と恵理菜だが、希和子の愛情が土台にあったことで、妊娠しても空虚でありながら、当時の記憶を呼び覚ましたことで母性に目覚めた。奇しくも両親と同じ運命に見えても、恵理菜が母性に目覚めたことが救いとなる。「もし私が母になったら、両親も祝ってくれるかな」というセリフには、空虚な両親も、孫の存在によって自分を取り戻してほしいという期待が込められている。この目覚めた恵理菜の「人間性(母性)」によって、真っ黒だったオセロが一瞬で真っ白になっていくように人生が変化していく。千草が「私も一緒に子育て手伝う」と言ったのも、千草が自分を取り戻し始めたことを示唆している。この連鎖が人間性が人間を救うことを教えている。素晴らしい作品だと思う。
#何度見てもよい作品
不倫相手が本妻の子どもを誘拐し育てる物語。思ったより感情移入できなかったのは、4年間も隠し通せるのかという疑問が常に心にあったからかもしれません。経済的な面が考慮されていないのも現実味を欠く要因でした。本妻が自分の子どもを奪われ、一生本当の親子のような関係を持てなかったのは非常に気の毒ですし、中絶して妊娠できなくなった貴和子にも同情します。悪者を探そうとすると、最終的には中途半端な行動をとった旦那に行き着くことになるのでしょう。旦那の人間性についての描写は薄く、視聴者としては彼が悪の根源だと感じる怒りをぶつける対象になっていました。
名作として鑑賞。設定は現実味がありハラハラさせられた。井上真央は派手な大学生役ではなく、どこにでもいそうな普通の人物を演じ、現実味を高めていた。ただ、事情を問わず誘拐という展開にはどうしても違和感が残り、母親を全面的に正当化する気にはなれなかった。謎の宗教の存在意義も不明瞭で、謎が残る点が気になった。
幼い頃、地上波で初めて観たその映画は、今でも忘れられない。
未成年者略取が罪として認定される一方で、大人の都合でさまざまな人と出会わされ、別れさせられることの方が、当事者の人生にとってはるかに重い影響を与える重大な被害だと感じる。
完璧な作品。アカデミー賞を受賞するのは当然の結果だ。永作さんや井上さん、そして子役たちの演技は非常に高い完成度を誇る。『火垂るの墓』を彷彿とさせる。情感を深く感じたが、誘拐は重罪であることには変わりはない。小豆島は素晴らしい場所だ。
どのように受け止めるかが重要です。たとえ罪から始まったとしても、愛を感じられたのなら、それは間違いなく愛だったのでしょう。
後半は、純粋に涙が止まらなくなりました。普段は映画で泣くことが少ないのですが。
それと、薫という名前がとても好きです。
善悪の境界をあいまいにし、多面的な視点を伝えようとする作品なのかと期待していたが、結局のところ落としどころに納得感が薄かった。どう見ても父親が悪役である構図が強く、物事の根本的な解決へと導く糸口があまりにも露骨に示されている気がした。私自身、母性神話を強く信じていないせいかもしれないが、最後に主人公が腹の中の子を思う心理も理解しきれなかった。別の視点を描いてほしかったという気持ちもある。子を宿さないこと=普通の道から逸れる、という価値観が現代社会と必ずしも合致していないのかもしれない。とはいえ映像表現としてこの重いテーマを扱う中にも遊び心が散りばめられており、観客を飽きさせない工夫を感じた。サントラも非常に印象的だった。
映画を観た後、どう受け止めればいいのか分からなかった。俳優の演技は素晴らしく、物語としては引き込まれる。しかし、父親の犯罪性が核となり、誘拐を犯した人物が最悪の存在として描かれる点には違和感が残る。実母がヒステリックで酷い女として過度に描かれ、憐れみに思えてしかたなかった。誘拐した側の愛が本物だったのかもしれないが、被害者側の視点を中心に見ると、作品の印象は大きく変わる。浮気や子どもの誘拐といった要素は過酷で、壊れてしまうのも無理はない。途中で触れられる「誘拐されなかったら家族は壊れていなかった」という指摘も一理あるだろう。そもそも浮気がなければ実母は良い母だったのかもしれない。犯罪者の美化が過度で、感情移入が難しかった。小豆島での日々は美しく映るが、私は共感を得られなかった。犯罪者にも事情があるのか、愛は子どもに伝わっていたのかそれがテーマなのかもしれないが、結局何を伝えたいのかはっきりと掴みきれなかった。
永作博美と井上真央は、まるで本当の親子のように雰囲気がそっくりで圧倒的だった。決して許されない罪を背負いながらも、誘拐した娘に自分の子のような深い愛情を注ぐ矛盾を抱え、親と娘の偽りながらも幸福だった日常が崩れていく避けられない運命を描く。原作を読んだときと同じく緊迫感と見応えがあり、娘が自分の育った島を訪れ、家族写真の記憶をたどって自分が身ごもった子に対しても、かつて自分が受けてきたのと同じ愛情を注ごうと決意するまでの過程は、原作を上回る感動を生んでいた。
希和子は母親になりたかった。
愛する人との絆は子どもに繋がる。
誘拐という深刻な罪を描きながらも、
その背後には真実の愛がある。
観ている間、心が常に揺れ動いた。
原作は未読です。
テーマはかなり重く、全体にわたって独特な雰囲気が漂っています。
誘拐した側が悪いのは明白ですが、その背後には複雑な事情があるのです
実際の出来事ではないのでほっとしましたが、元となる「日野OL不倫放火殺人事件」は非常に衝撃的です。
作品の核と魅力
– 『八日目の蝉』は、誘拐犯と被害者という倫理の最深部を扱いながら、血縁を超える「究極の愛の形」を問うヒューマンドラマとして成立している。原作の複雑な過去(誘拐逃亡)と現在の葛藤(成長後の自分探し)を、編集の妙で絡め合わせ、記憶と感情の層を見事に描き出す。
– 物語は、誘拐犯・野々宮希和子の罪の描写にとどまらず、実母の元へ戻っても心に空洞を抱える恵理菜の再生の物語へと焦点をシフトさせる。こうした多層的構造が、倫理的判断を超えた愛の根源的な重要性について観客に深く思考させる。
– 希和子の偽りの四年間の幸福と、実母との埋まらない溝との対比は鮮烈で、作品のテーマの説得力を高めている。
構造と終盤の処理
– 物語終盤では、恵理菜の再生の旅を速やかに収束させるため、案内人の機能を安藤千草に集約し、終幕における口上を通じて物語の結論を伝える。こうした展開は、日常的な感情のリアリティを一部犠牲にするとの指摘もあるが、愛のメッセージを曖昧にせず明確に示すための、監督と脚本家の意図的な選択と捉えられている。この感情の強度こそ、本作が日本アカデミー賞を席巻した最大の理由といえる。
監督の演出と演技の要点
– 成島出監督の演出は、叙情性を保ちながら過度な感傷を抑えた抑制美が軸。小豆島の自然光と素朴な風景は、希和子と恵理菜の一瞬の幸福を包み込み、逃避行の緊張感と対比を生み出す。
– 編集は、過去と現在の時間軸を感情の連続性を重視して縫い合わせ、全体を一つの統一的なテーマへと導く。複雑な構成にもかかわらず、観客の感情の流れを止めずに進行させる技術が際立つ。
脚本とテーマ展開
– 脚本は奥寺佐渡子が原作の心理描写を整理し、恵理菜の内面的旅路に焦点を集約。希和子の「母になりたい」という願いから始まる罪の連鎖と、恵理菜が現在直面する不倫の連鎖が交差する構造を描く。千草との旅を通じて、恵理菜が希和子の残した愛の痕跡を辿り、自己受容へと至る過程を丁寧に描く。
– 倫理的に難しい行為の裏にある純粋な愛情を深く掘り下げる、テーマ性の高い構成となっている。
キャストと演技の算出
– 井上真央は秋山恵理菜(薫)を演じ、心に深い空洞を抱える女性の孤独と苦悩を静かな表情の変化と鋭い眼差しで描く。過去と現在の間で揺れ動く不安定な魂の彷徨を体現し、ストーリーの核となる孤独と再生のテーマを担う演技で、終盤の感情解放に強い説得力を与える。
– 永作博美は野々宮希和子を演じ、不倫相手の子を奪った罪と、彼女の母性愛の激しさを鬼気迫る迫力で表現。子を抱く慈愛と追いつめられたときの虚無的な眼差しの対比が強く、観客に罪と愛の複雑さを直感させる。逮捕直前の演技は、作品全体の感情的高みを決定づける。
– 小池栄子は安藤千草役を演じ、恵理菜の旅の案内人としての役割を現実的な視点と推進力で支える。冷静さと温かさを両立させ、物語の重さを和らげつつ旅路を確かなものにする存在感と演技力を発揮。
– 森口瑶子は秋山恵津子役で、誘拐事件によって傷ついた母の苦悩をリアルに表現。娘との距離感と希和子への憎しみの間で揺れる姿が、被害者家族の複雑な内情を浮き彫りにする。
– 風吹ジュンは沢田昌江役として、希和子を温かく受け入れる島の女性を演じ、物語の根底にある人間愛の拠り所を象徴する存在感を放つ。
映像美と美術・衣装
– 小豆島の自然光を最大限活用した映像美が叙情性を深め、美術は逃亡生活の温かさと実家の都会的冷たさの対比を通じて恵理菜の居場所の欠如を視覚的に表現する。
音楽と主題歌
– 音楽は安川午朗が担当し、叙情的で静謐なスコアが複雑な感情の機微を捉え、物語の深さを増幅。主題歌は中島美嘉の「Dear」が、希和子と恵理菜の断ち切れない絆を力強く響かせ、余韻を深く残す。
受賞歴と評価
– 本作は第35回日本アカデミー賞で作品賞、監督賞(成島出)、脚本賞(奥寺佐渡子)、主演女優賞(井上真央)、助演女優賞(永作博美)、音楽賞(安川午朗)など主要部門で受賞。さらに第66回毎日映画コンクールで日本映画大賞を獲得するなど、国内主要賞を席巻した。
作品データ
– 監督:成島出 / 114.5×0.715 / 81.9
– 編集:
– 主演:井上真央(恵理菜)
– 助演:永作博美
– 脚本・ストーリー:原作 角田光代 / 脚本 奥寺佐渡子
– 撮影・映像:藤澤順一
– 美術・衣装:松本知恵
– 音楽:安川午朗 / 主題歌:中島美嘉
「優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした。」小説から始まる映画観賞。小説はオカルト的な表現が多く、少し難しく感じたが、映画は心に深く響いた。両方堪能するには、小説から映画の順がオススメ。ラストの「その子、夜ごはんまだ食べてないんです」という一言にじんときて、涙が溢れた。実母役のヒステリー演技も見事で、誘拐犯役の永作博美も素晴らしかった。本当に良いお母さんを演じ切っていた。演技力のあるキャストが揃っており、非常に楽しめた。ただラストがやや物足りなかったため、評価は星3つ。
倫理観が歪んでしまう。事件がなければ、あの家で育っても幸せになれたのかと思うと、言葉が出てこない。
男性の気持ち悪さも女性のそれも、どちらも顕著だった。不純な愛や執着心が人をこうも変えてしまうのだろうか。
一緒にいたいと願うことは、執着なのか依存なのか、それとも愛なのか。
答えは分からないが、小豆島に来てから八日目だったのかもしれない。
一緒に撮った写真のシーンで、手から何も落とさないやりとりが印象に残った。
別れ際の言葉は、間違いなく本物の母親のものだった。
気になる点は、原作を読むしかないだろう。
幼い頃、金曜ロードショーで観て以来の再鑑賞でした。以前からこの作品が好きでしたが、成長とともに視点が変わり、今はさまざまな感情がより深く湧いてきます。特に印象に残るのは『その子はまだご飯を食べていません。』というセリフ。この作品を、大人になった自分の視点で改めて味わい尽くしたいと思います。