2020年7月17日に公開の映画「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を今すぐ視聴できる動画配信サービス(VOD)を徹底紹介。この記事では「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」のあらすじやキャスト・声優、スタッフ、主題歌の情報はもちろん、実際に見た人の感想やレビューもまとめています。
グレース・オブ・ゴッド 告発の時が視聴できる動画配信サービス
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グレース・オブ・ゴッド 告発の時のあらすじ
妻と子供たちとともにリヨンに住むアレクサンドルは、幼少期に性的虐待を受けた相手であるプレナ神父が、今もなお子供たちに聖書を教えていることを知り、家族を守るために過去の出来事を告発することを決意する。初めは関わりを拒んでいたフランソワや、長年一人で傷を抱えてきたエマニュエルをはじめ、同じく被害を受けた男性たちのネットワークは徐々に広がっていく。しかし教会側はプレナの罪を認めるものの、責任を巧みに回避しようとする。アレクサンドルたちは信仰と告発の間で葛藤しながら、沈黙を破った代償──社会や家族との摩擦とも戦わなければならなかった。果たして、彼らの人生を懸けた告発はどのような結末を迎えるのか?
グレース・オブ・ゴッド 告発の時の詳細情報
「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」の制作会社や監督、キャスト、主題歌アーティストなどの作品に関する詳しい情報をまとめています。作品づくりに携わったスタッフや声優陣をチェックして、より深く物語の世界を楽しみましょう。
監督 | フランソワ・オゾン |
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脚本家 | フランソワ・オゾン |
出演者 |
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カテゴリー | 映画 |
ジャンル | ドラマ |
制作国 | フランス ベルギー |
公開日 | 2020年7月17日 |
上映時間 | 137分 |
グレース・オブ・ゴッド 告発の時の公式PVや予告編動画
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グレース・オブ・ゴッド 告発の時を無料で見る方法は?
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感想・レビュー
直接的な描写はないものの、登場人物たちの表情だけで胸が痛む。加害者との突然の対面があまりにもおぞましい。役者たちが役に没入できる環境を整えた監督の手腕が光ります。本当に辛い内容です。
性被害の告発がもたらす困難や逆境が、簡潔かつ効果的に描かれていて、さらに心が重くなる。
被害者のカミングアウトの痛みはもちろん、息子が性被害にあったことを受け入れられない父親の無関心、男性同士の性被害を軽視し、苦しみを理解できない母親、被害者の弟に心を奪われている親に対する兄の不信感、リアルに感じる感情で反発してくる嫁、そして世論の注目を受けて騒ぎを大きくしようとする仲間たちなど、様々な要素が被害者にさらなる苦痛を与えている。
時効の性犯罪を訴えて大衆の支持を得る難しさが、リアルかつ緊迫感あるドラマとして提示されていました。
教会の祈祷句(汝の罪を許せ)も、微妙に「無かったことにしろ」とささやいているようで、心が痛みます。
PTSDの影響で気絶・痙攣する彼がバイクを乗り回しているシーンには驚きました。さらに、時が経った性犯罪の立証や起訴の難しさは描かれておらず、進展がサクサクと進む印象も受けました。あの年配者がすぐに告白するから、話が進みやすかったのかもしれませんが、証言を集めるだけで立件できるのは、少しご都合主義に感じられます。
しかし、よく考えると、オゾン監督は性被害告発の全貌を描こうとはしていないのではないかと思います。様々なケースがあり、幸運な状況が助けとなることもあるからこそ、まずは声を上げることが大切です。この映画は、そんな一つの声を世界に発信した作品だと感じました。
尊い試みであり、大切なメッセージを届けてくれる映画でした。実話を基にしながら、単なる映像化ではない、映画の力を信じて作られた希望の作品です。ただ、心が暗くなることもありますが。#希望の映画 #フランス語って敬語があるの? #超厭 #家族ヤダ映画 #やるせない物語 #対話が豊かな映画 #地獄の平行線議論 #ヌルくない #邦題グッジョブ #ディスコミ地獄
メルヴィル・プボーが主演する『ブロークン・イングリッシュ』では、少年時代に育った教会で聖職者から悪戯を受けた記憶が蘇り、大人になってから精神的な苦痛に悩む主人公が訴訟を起こす姿が描かれています。
子供の頃にはその意味が理解できなかった出来事が、大人になって「あれは、性的暴行だった」と自覚することの辛さは計り知れません。
アメリカの同様のテーマを扱った映画『スポットライト』もありますが、こちらはフランスで実際に起こった別の物語です。
このような問題が、どの国でも発生している可能性があることを考えると、「昔はなかった」とは言えず、昔から存在していたことが何十年か経ってようやく明るみに出るという現実は非常に残酷です。
作中にも語られますが、加害者だけでなく、その事実を隠蔽し続けた周囲の人々(傍観者)も大きな罪を背負っています。
日本でもジャニー氏の問題が話題になっていますが、神に頼るしかなかった子供たちを守るべき聖職者がそのような性犯罪に加担していたことは最も許せない事態です。
主人公が最初に訴訟を起こしたことで、他にも多くの被害者が存在していることが明らかとなり、集会が開催されるようになります。その中に過激な意見を持つ被害者がいて、主人公が「もう少し冷静に」と促すと、「あなたが何も変えられなかったくせに!」と反論され、同じ痛みを抱える仲間同士が対立する姿は悲しいものでした。本当にデリケートで複雑な問題です。
『スポットライト』同様、エンドロールでその後の展開が分かる演出も印象的です。
最後に美しくライトアップされた教会の姿は、そこで起きたことを思うと、とても皮肉に感じられました。
フランソワ・オゾンのマラソン#8
宗教を否定するつもりはないが、聖職者であっても我々と同じ人間であり、過ちを犯す存在なのだと再認識させられた。
回想シーンの緊張感は非常に高かった。
思った以上に被害者の周囲が事件に対して避ける傾向にあることに驚かされた。
フランソワ・オゾン監督のこのような映画は初めて観る。実話が基になっているため、大袈裟な演出はなく、淡々とした感じがとても説得力を持っていると感じた。物語の序盤では、神父が事実を認めながらも時効が関わるため話が進まないもどかしさがあったが、正当な手続きを通じて追求していく姿勢には感心した。こうしたテーマは証言を躊躇する人も多いと思うが、子どもを守りたい、一つの教会を変えたいという思いから、皆が勇気を出したのだろう。物語の最後には、会から離れたいという人や信仰を失った人がいて、大人になった彼らが自分の意見を持つからこそ、さまざまな見解が生まれるのだと感じた。正しさも間違いもないと思う。ただ、子供の頃に声を上げられず、大人の言葉に従うしかなかった人々が、自らの意志で行動しているのは素晴らしい。最終的には、皆の思いが報われてよかった。また、多くの日本人にとって「信仰」というのは遠い存在であり、共感しづらいかもしれないが、親や教師、スポーツ指導者など、信じていた人に裏切られたと考えれば、その苦しみを想像しやすいかもしれない。ネット上では性犯罪への軽視や処罰の甘さに関する意見が多く見られるが、本当にその通りだと思う。たった一度の出来事が人生を変えてしまう。そのことをもっと理解すべきだと感じる。「たかが」と思う人には、この映画のように「もし、自分の子供が被害に遭ったら?」と考えてほしい。性別に関係なく、多くの人に観てもらいたい映画だ。(少し趣は異なるが、「スリーパーズ」を再度観たくなった)
実話をベースにしているため、訴えたい事情が明確であり、描写がとてもわかりやすかったです。子供が相手なので直接的なシーンはありませんが、全体的にかなり辛い内容でした。
【見どころ】
実際にあった事件を元にした作品。
神父による子どもへの性的虐待。
被害者3人の視点からの描写。
心に残る傷の深さ。
隠蔽する体質。
告発することの勇気。
いつもとは異なるオゾン。
【感想】
実際に起きた事件をもとにした作品で、演出は控えめ。フィクション感が薄く、オゾン監督の作品とは思えないほどだ。現実こそが最も残酷でドラマティックであるという監督のメッセージが込められているのだろう。
その内容はまさにその通りだった。聖職者という立場にある神父による蛮行は、まさに「羊の皮を被った狼」と言える。さらに罪深いのは、カトリック教会がそれを見過ごし続けたこと。信者にとっては衝撃的な出来事であり、この事件を知ることで信仰を捨てる人もいるだろう。
事件を知りながら何もしなかった家族も同様に責任がある。この世界は、もしかしたら地獄以上に恐ろしい場所かもしれない。
公開当時、この事件の裁判が進行中だったのだ。映画化することにより、この事件を広めるのがオゾン監督の意図だったのだろう。法による裁きだけでは不十分であり、社会においても裁かれるべきなのだと。
グローバルに知られるフランソワ・オゾンがこの作品を作る意義は大きい。自身のスタイルを敢えて排除してまで表現したその姿勢に敬意を表したい。
日本のあの事件も映画化されてはどうだろう。国際的に名の知られた是枝監督、北野監督、宮崎監督が取り組んでみては。
タイトルの「グレース・オブ・ゴッド」は「神の恩寵」とか「おかげさま」という意味で、この部分は皮肉を含んでオゾンらしさが際立っている。
フランソワ・オゾン監督の作品は、これまでのキラキラした印象とは裏腹に、驚くほど重厚なドラマでした。
事件の理解が難しい中で、被害者の会に焦点を当て、表面的な感動を追求することなく、深い人間ドラマに仕上げられていて、非常に感銘を受けました。
本当に素晴らしい作品でした。
実際にどこまでが真実かは分からないけれど、どんどん仲間が集まり、Me Too運動が大きくなっていく様子に感動した”始まり”の人は本当に偉大だ。
子ども時代に経験した性的虐待の組織的な常習と隠蔽に対峙しようとする動きについて、良い仕事に就き家庭を築いた成功者ばかりが前面に出るイメージが強い。一方で、心の深い傷を抱え続けて社会のレールから外れてしまう人もいて、そうした人は行動する資金や気力を欠くことが多い、という現実が見えにくい。被害者ながら炎上系の配信風の振る舞いを見せるフランソワや、知性ゆえに社会から距離を置かれてきたエマニュエルといった人物を前にすると、共感よりも不快感を覚える場面がある。
子どもに対する性的虐待は断じて罰されるべきだ。しかし、何十年も前の被害を忘れて平穏に暮らしていた人が、突然正義を掲げて社会に訴えようとする動機には疑問がつきまとう。大人の裏表や嫌らしさを目撃すると、単に頑固になっているだけではないかと鑑賞中に思うこともある。
病的な小児性愛者には発散の場所が乏しい現状も事実だが、彼らが小児性愛者として生まれたわけではないとの指摘もある。むしろこうした人々の葛藤をテーマにした作品を観たいという気持ちが強い。ところが、国内で最も近い題材の作品 Head Burst が観られないのは、非常に歯がゆい。
性的虐待に関する見解が鋭く、善悪の境界が曖昧な深い映画だと感じました。多くの人にぜひ観てほしいと思います。私の感想は自己中心的かもしれませんが、強い感情が湧きました。まず、私はキリスト教信者ではなく、その知識も乏しいです。そのため、無知や馴染みのない習慣に困惑する場面が多々ありました。私の感想にも誤りがあるかもしれません。スカウトや聖書会の制度は、前提として神父が善良であると信じているため、その通りだと思います。社会的に信用されている大人が性的暴力を振るうとは考えられないため、最初の事件が発生した時点では、教会側や家族に責任はなく、神父の罪だと感じます。神父自身の過去の経験が理由とされているのは通用しません。PTSDが酷い症状を引き起こすことはありますが、他人に危害を加えた場合、それはもはや理由になりません。どんな障害も言い訳にはならないのです。性的な描写は控えめですが、言葉や表情でその悲惨さが伝わってきました。どれほどの輝きを奪われたのか、感じざるを得ませんでした。自らも性的虐待を経験した者として、息苦しい場面が多数ありました。PTSDについては注意が必要だと思います(あらすじからも警告はあるでしょう)。息苦しさから、一度映像を止めたくなり、映画館で観なくてよかったと実感しました。最後、パン屋の店員がリストバンドを見て動揺するシーンが辛かったです。その神父の存在を思い出すだけで、動悸がして体が震えました。これは反射的なもので、容易に治るものではありません。性的加害についてのニュースにも同様に動悸を感じることがあります。過去の記憶を引きずり出されるからこそ、その痛みを理解できるのです。
告発を行う姿勢は、まだ向き合う時期にない人々には辛いことでしょう。勇気と体力を要する行動です。本作で、主人公が時効前の被害者に告発を依頼するシーンは心を痛めました。彼女にとっては「自分も勇気を持って告発した、あなたも」と言いたいのでしょう。しかし、時効前の被害者には、彼ら自身の人生や背景があるため、告発や言葉にすることは容易ではないと思います。「誰かのために」という無神経な発言は、非常に残酷なものです。その辛さは、ただ思い出すだけで体が震えるほどです。話すことで事件を認めることになります。それは自らに起こった実際の出来事だと認めることになるからです。性的加害を受けたことが夢のようなものであれば良いのに、現実はそうではありません。実際に告白しても、警察が動かないことを理解しています。だからこそ、協力者を求めているのです。しかし相手は話す準備ができていないかもしれません。心の準備が必要です。本作には、親に言えなかった人、話したが無視された人、そして対応してくれた人が描かれています。女性が性加害について声を上げることは難しいですが、男性にとってはさらに厳しいと思います。性的反応を経験したことを穢らわしく感じる人もいると聞きますが、それは生理的反応であり、同意を意味するものではありません。親が適切に対応しなかった場合、それは二次被害になります。傷ついた心がさらに傷つくことで、愛着障害が悪化することも珍しくありません。最後に、父親が「誰にでも問題がある」と言うシーンは厳しいものでした。彼女に支えてもらえなかったからこそ、彼自身は支えてほしかったのでしょう。親もショックを受けているはずです。自分の子供にそんなことをするとは到底思えない疑念や怒りが渦巻いているのです。
物語の中で「ひとりじゃないって最高だな」というセリフがありました。この言葉には共感します。自助グループの意味にも繋がると思います。被害者たちはこれまで、一人で傷と向き合ってきました。仲間と共に、同じ痛みを分かち合えることの素晴らしさを感じました。また、弟の性加害について、中心にいるお前に怒っていた兄の姿にも胸が痛みました。あの瞬間、置き去りにされる感情は、愛着形成に影響を与えます。性加害は家族全体の人生をめちゃくちゃにします。子どもが性的虐待を受けたことに気づくのは、しばしば大人になってからです。その時には、被害者の行為が行った相手が死んでいたり、行方不明だったりすることが多く、怒りを発散する場所が見つからないことがほとんどです。キリスト教から離れた人々は、もはや神父に会う機会がありません。最後に神を信じるかと問いかけられた主人公の顔が切なかったです。キリスト教について詳しくはありませんが、神聖さが穢れた人間によって辱められるのは最悪の事態であり、信じたい気持ちと同時に嘘をつき続ける者たち。そして、神の加護で時効になっているとのセリフには、私も驚愕しました。あまりにも酷いことを平然と言えるとは、最後まで最低の存在だと思いました。すべての被害者には、それぞれの人生の背景があります。支えてくれる人がいるか、幸せな生活があるか、状況はどうか、様々な要因が絡んでいます。声を上げられないからと言って、弱いわけでは決してありません。それぞれが抱える理由と苦痛があるのです。見た目には似ていても、実際にはまったく異なるのです。声を上げることが唯一の正解ではなく、被害者たちが幸せな人生を送れることを心から願うばかりです。